疎林書 中城ふみ子歌集   「乳房喪失」より

 中城ふみ子は帯広市出身。戦後の歌壇に偉才を放ったが、癌に侵され31歳で生涯を閉じた。
 疎林は94歳の春、庭のオンコに降り積もる雪景色を眺めながら画仙紙を短冊に切り、つれづれに筆を進めた。 後にこれらが散逸しないように集めて裏打ちをしてつなぎ合わせ折帖とした。
 中城ふみ子の歌61首が2冊に、短冊に書きながら疎林が詠んだ歌17首が1冊にまとめられ、手作りの折帖3冊がケースに収まった。

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油彩の歩み
かがまりて君の靴紐結びやる卑近なかたちよ倖せといふは
無内容なる時間をともに頒ちゐてわが若ものは美しかりき
音絶えし夜更けにわれの祈りあり今日も心が鎮りませぬ
春の雷とどとどろ鳴る夜の駅にスーツケース下げてわれは孤りなり
背のびして唇づけ返す春の夜のこころはあはれみずみずとして
憂鬱といふならねども三十のわれは男の見栄に目ざとし
耳垂れて残飯を食ぶるこの犬も人間の側にあれば醜し
春の雪ふる街辻に青年は別れむとして何か叱るも
長き肢もて余すがに坐るよと余裕あるときわれは年うへ
秋風に拡げし双手の虚しくて或ひは縛られたき我かも知れず
おり立ちて白きタイルを潔めつつ写せば冷たし秋のわが顔
値をひけと押しつけて言ふ表情が又ぺったりと胸に粘りつく
いたはられて済む嘆きかも菊のそば離れて静かに鼻をかみたり
秋とほる日ざしの路地に伸ぶるところむく犬は咽喉の毛を掻きゐたり
ひそひそと秋あたらしき悲しみこよ例えばチャップリンの悲哀の如く
草の穂を跳びゆくは現代少女にてほっそりと白き脚など持たず 
街々の人間侮蔑の証(あかし)みつ来たれば砂地に水浸みし跡
ためらはずきみに与へし林檎の実冬に凍りて酸ゆることなし
たれのものにもあらざる君が黒き喪のけふよりなほも奪い合ふべし
朝の虹くぐりて塵埃馬車ゆけり健やかなる明日を疑はぬ目に
もの言へば声みな透る秋日ざしわれの怒りもはかなくなりぬ
アドルムの箱買ひ貯めて日々眠る夫の荒惨に近より難し
倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯のなかに煮て
ひざまづく今の苦痛よキリストの腰覆ふは僅かな白き粗布のみ
葉ざくらの記憶かなしむうつ伏せのわれの背中はまだ無瑕なり
春の夜の食器透明に響き合ひ病まざる人らの日は操られゐむ
死に近きわれに不変の愛誓ふ鎮魂歌ははやくもひびけり
純粋なボタンに春服の背を飾りわれに相似の少女は歩め
山々がまどかに空に浮くまひる我の凍死の計画も延び
公園の黒き樹に子らが鈴なりに乗りておうおうと吠えゐる夕べ
無実なる野鳩を射ちし銃口をこの空のどこに探り当てよう
視線づらしもの言ふ人を追ひつめて触れし柔媚なるものにとまどふ
風の夜の籠編む指先すばやくて取り残されたる灯火とわれと
春泥の街に硝子戸は光りつつ君の留守なる仕事場もあり
自画像を抱へて猫背に帰りゆくきみの独身なほ続くべく
スチームの冷えしあけ方腕のなかに見知らぬわれがこと切れてをり
  春泥
風呂敷をかむせし灯り明るさの範囲内にてもの書く春寒
薄ら寒き独身の友が尋ね来ぬ猫の抜毛をズボンにつけて
春かぜにもつれ毛の小さき渦うごき癌病棟に女患が多し
微かなる陽のいろ含む斑雪に愛着もちて長きいちにち
松葉杖の子が越えつきし街なかの雪解の水も凍らむとして
愛撫の記憶すでに止めぬわが髪は伸びきりて春浅き風に従ふ
冷えしるき放射線科の廊くだるポケットに狂へるとけいとわれの掌
氷紋の美しき日は過去として失ひたかりし記憶も惜しく
われの過去に触れあるカルテは事務卓のあたたかき上にかすかに乾反り
別れ来てひとり病む夜も闘ひは避けがたきかふかくベット軋みて
凹みたる胸に秋終る陽をうけつ「此処に爬虫類の棲みし空洞あり」
夜ふかくスチーム通ひくる微かなる響きよ病みて夫なきしあはせ
癌新薬完成とほき教室にモルモットひそと眠る夜寒(よるさむ)
レントゲン放射に胸の皮膚を焼き黒きを何の烙印とする
唇を捺れて乳房熱かりき癌は嘲ふがにひそかに成さる
担はれて手術室出づるその時よりみづく尖る乳首を妬む
枯れ花の花環を編みて胸にかけむ乳房還らざるわれのために
白き海月にまじりて我の乳房浮く岸を探さむ又も眠りて
施術されつつ麻酔が誘ひゆく過去に倖せなりしわが裸身見ゆ
冷やかにメスが葬りゆく乳房とほく愛執のこゑが嘲へり
メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴りあふ
もゆる限りはひとに与へし乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず
深層  葬ひ花    これよりその二
何時の日のわれも僥倖など持たず病院に来て湿りし靴ぬぐ
手術室に消毒薬のにほひ強くわが上の悲惨はや紛れなし

おわり  このページのトップへ

疎林 乳房喪失を書きながら詠む

紫の蝦夷山つつじ村にあふれて我が庭に咲く
葭原の山にのぼりてほりてこし蝦夷山つつじ胸はりて咲く
山つつじ紫色にきほい咲き春の雪融け吾に語るも
庭の木々四月の雪によろこびて吾をなぐさむる如消えにけるかも
クロッカス花終るとき春の雪無情か有情か傾きており
土未だ乾かず日溜りの午后裏庭の木々の冬籠ひはずして見たり
裏庭の日光シャクナゲの冬囲い今日とりはずし春葉なでつヽ
老いの身に幸あれとかや山つつじ花は満朶と咲きにけるかも
老いの身に天空一碧日は照りぬ裏庭に出て曙松仰ぐ
去年茂りし曙松の枯落葉集めて焼きて土に還すも
落葉して冬を越したる曙松枝空天にのびのびと伸ぶ
われ九十四汝も同じか今朝見れば三段枝に雪ふりつもる
三層の傘一位につもる春の雪乳房の如き我には見ゆる
   
季節はずれ朝からの春の雪音もなく天空よりしづかにしづかに
むかし九州宮崎神宮に参拝せし時メタセコイヤの大木を見ておどろきしことあり
ふる雪はふるき御霊のちりぐにふるきふるさとおとづれるごと
朝中ふるふる春の雪オンコの枝につもるを見れば乳房の如し